Dancer/Choreographer
[ Tokyo JAPAN]


私的舞踊史
竹屋啓子
ダンスとの出会い
〜ダンス活動の持続

<ダンスとの出逢い~ダンス活動の持続>

1960年代~70年代(10代~20代)

東京都出身、東京教育大学〔現筑波大学〕体育学部舞踊研究室卒業。

“大学入学式は胃を壊して寝込み出席できず、当時体重39キロ。
高校では軟式テニス部。大学に入ったときは、やせすぎていて、
体育学部のたくさんの運動部のどこからも誘いがなく、
唯一ダンス部に勧誘される。
ダンスは嫌いでない、子供のとき少し経験した、そして高校時代
新入の女性体育教師が、教育大入試のため実技の指導など時間外に
熱心に指導してくださった方が教育大ダンス部出身などの理由で入部。
体育学部のダンス部なので上下関係は厳しい。
茗荷谷から授業が終わると、急いで幡ヶ谷の体育学部に移動。
練習場といっても、当時ダンス部占有スペースはなく、
体育館を半分に分け、他の球技などと共に練習する。
先輩が来る前に1年生はスペースの掃除を済ませて先輩を迎える。
タイツを膝まで上げて裸足で、太鼓に合わせての練習。
バレエは知っていたがモダンダンスの分野はまったく知らなかった。
体育館、はだし、太鼓の組み合わせが、自分が勝手に思っていたダンスの
イメージと異なり一年間で、より本格的にバレエなど学びたくダンス部を退部。“

“小学生のとき、執行正俊バレエスクールに通ったことがあった。
家から一駅の荻窪駅にあり、ほかにスタジオを知らないので、
もう一度その門をたたく(60年代インターネットもない、簡単に検索して
捜すということはなかった、周りに舞踊家関係者はいなかった)。
当時アメリカは自国の生んだモダンダンスを誇る文化として、
日本に大いに広めるべく、ダンス講習会(今で言うワークショップ)を
アメリカ文化センターで開催していた。
アンナ・ソコロフかポーリン・コーナーのどちらかの講習会で
三条万里子さん(日本人で初めてアルビン・エイリー舞踊団入団)に会う、
ちょうど映画で「ウェストサイド物語」を見て、ジャズダンスに憧れ、
阿佐ヶ谷の三条先生のスタジオでルイジのジャズのクラスがあると聞き
通い始める。西田先生という女性の方が指導、冬になると生徒が私一人
ということもあったが、人がいるかいないかは当時の私は気にならなかった。
ひたすら踊りたかったし、学びたかった。
熱心な生徒に三条先生から自分の公演に出演しないかとお誘いがあった。
但し、自分のグラハムテクニックのクラスを受講することが条件だった。
グラハムのクラスを見学に行き、床でヨガのように座ってはじまるメソッドと
屈折やひねりのある動きをはじめてみて、変な動きだなと思った。
はじめてのグラハムメソッドと出会い。
三条先生の公演には出演し、バッハのシャコンヌを群舞で踊る。“

“大学は遊戯研究室から、松本千代栄教授が舞踊研究室として独立、
その研究室の学生として大学生の後半を迎えていた。
鑑賞した公演や踊りの話を研究室で存分に出来、又理不尽な世界だなあという
思いを募らせていた私の日本の舞踊界へのつぶやきにも、大きな心でアドバイス、
受け入れてくれた松本先生の影響は計り知れない。
多分この頃モーリス・ベジャール20世紀バレエ団日本初演の
「ロミオとジュリエット」を代々木に体育館で鑑賞。
男性の踊る美しい姿にカルチャーショックを受け、古典バレエではない
モダンバレエ作品に強く影響を受け、踊りをやって生きたい、
やっていくという気持ちを強くした。
大学を卒業、最初の年は教務補佐という仕事を大学でさせてもう。
その頃、私のデビュー作といえる作品に出演、石井かおるさん(石井漠最後の弟子)
の「ザムザラ」。カフカの変身の舞踊化で主役ザムザの妹役で、以前六本木地下にあり、
アンダーグラウンド演劇の言葉の発祥源の自由劇場での公演。“

“教務補佐一年後、松本先生から「“二兎を追うものは一兎を得られず”ですよ!」と
悩んでいる私にアドバイス、舞踊の道を選ぶ決断をする。
身体を鍛えるのにバレエの基礎練習が大切と思った私は、
横井茂氏主宰の東京バレエグループに所属。
当時新しいバレエ作品の上演をしていたグループ、江川明さんや厚木凡人さんなど
その時代に実力男性ダンサーがゲスト出演していたグループ。
毎朝バレエのレッスンに明け暮れた。

いくつかの舞台に出る機会はあったが、食べていけるわけではない。
2~3ヶ月のリハーサルで当時、現代舞踊作品は1回の公演が多かった。
“戦後すぐのバレエ公演は、1週間公演できたとバレエの石田種生先生から
聞いたことがある、美しいものを皆が求めていたのだろう“。
舞踊で食べていかれないのかなあ、といつも思っていた。
他の仕事はしたくなかった、今ほど女性がアルバイトなど仕事をする習慣はない時代。
子供たちのバレエ指導と結婚で、この問題は、今から思うと切り抜けていた。
25歳のとき横井先生の振付作品、オフィーリアがモチーフの「誓いの恵みは消えうせ」
東京新聞全国舞踊コンクール現Ⅱ(成人)部門で第一位に入賞。

母校の大学の松本先生がお茶の水大学教育学部(舞踊学)の教授に移動、
川口千代先生が教育大の舞踊学研究室教授に、そこで私に専任講師への
大学からの誘い、20代で舞踊家と大学専任講師の二股をかけることになる。
この頃スタート3年目の、文化庁派遣在外研修員制度の海外留学の推薦を
受ける。大学職について、一年後にはNYマーサ・グラハムスクールに留学を決め、
文化庁派遣在外研修生としてNYに留学。
3ヵ月後スカラシップスチューデントとなり月謝免除、9ヶ月後にマーサの
個人オーディションに受かり、カンパニーメンバーとなる。
日本人先輩ダンサーに、浅川高子さん、木村百合子さんがいた頃。
グラハムメソッドは、当事興味は深まりマーサを尊敬していたが、グラハムの作品に
大きな興味があったわけではない、舞台を体験する喜びで入団。
但し、最初に与えられた役が4作品うちソロが1作品デュオ1作品、群舞が2作品。
小部屋で8ミ映写機の捜査を教わり、2週間後の総合リハまでに一人で覚えなければならなかった。今までの2~3ヶ月リハ、日本での1回公演の状況と違う環境に、5作品は絶対無理だと訴え、まずは3作品になる。見たことない作品を覚えていく、誰も指導してくれない、すごいプロの世界に入り込んだ、どうすればいいんだ!と戸惑う。
アメリカ地方都市を3都市周り、NYのウインターシーズンはブロードウェイのシアター。踊った作品は「セラフィック・ダイアログ」「ディバーション・オブ・エンジェル」「レター・トゥー・ザ・ワールド」「ナイトジャーニー」など。
NY公演リハーサル中に当時80代マーサが60代のダンサーパール・ラングのほほを
ひっぱたく場面に遭遇、ただそのエネルギーに唖然。
帰国すると母校は、筑波への移転が決まる。筑波大学の最初の入試の試験官を最後に、大学職を辞退。“大学内では大きな問題になっていた、が、本人はあまりに短い大学勤めの期間で大学内のことも良く知らなかった。
今より芸術家が国立大学の職を兼任するのは、難しい時代ではあった“。
でも“生来わがままで、好きなことしかしたくない”性格だったかもしれない。



80年代~90年代(30~40代)

1983年離婚。自身の舞踊団を立ち上げる
竹屋啓子コンテンポラリーダンスカンパニー(竹屋啓子CDC)設立。
レンタルのスタジオを持ち、スタジオでの舞踊教育と舞踊団の活動を精力的に行う。
翌年アテネフェスに招聘を受け、正田千鶴さんと東京コンテンポラリダンスグループを
結成して参加。このとき劇作演出家の佐藤信さんに演出を依頼、人生のパートナーとなる人に出会う。
1984年アテネフェス招聘、ギリシャ3都市を回り、アテネは野外劇場で公演。
1985年再婚。年二つの自主公演、ひと公演での上演2作品、その2作品を振付、
1作品には主演の活動時期。“今、こんなエネルギーはないな”
他のカンパニーメンバーがダンス創造の体験として、ダンスラボ企画も立ち上げ、
現在まで続く。
香港のダンスカンパニーの香港CCDCに 振付を依頼され「ハムレットの新聞」を
香港で上演、ここで多くのアジアやメキシコのダンサーたちに出会う。
欧米に目が向いていて、アジアの国々のダンス状況について知らない自分を発見。
1993年~2003年の10年間に3回開催した、アジアの芸術家たちとのコラボレイション企画「ダンス東風」への流れが生まれた。インドネシア、タイ、マレーシア、
インドの芸術家たちとの共同作品創りと両国での上演。第一回目は日本、タイの舞踊家&インドネシアの音楽家との共同作品「風の足跡・息の石」、第二回は日本、マレーシア5人ずつのミックスアーティストでの共同作品「トラップト」、第三回は日本、インドの舞踊家&インドネシア、インド、日本の音楽家が参加、共同作品「舟もなく」。



2000年代(50~60代)

「風の足跡・息の石」2000年のワイマール、2001年サンチャゴ・デ・コンポステ
ラのEUフェス招聘公演で他の作品と共に再演。個人的には最終回のインドとの共同作品「舟もなく」が気に入っている、インド、インドネシア、日本の音楽家たちの曲も最高だった。再演したいがあまりにも規模が大きく予算獲得の目処が付かなかった。
“マネジャーがいたら何とかなったのか・・・いないのだから考えてもしょうがない。”
2001年は、9月11日劇団黒テントの海外公演に参加していてインドネシア、ジャカル
タのホテルのTVで、飛行機が巨大なビルに突っ込む光景を見ていた。いインドネシアでの反応と、帰国後の日本での情報などの差に自分たちが、受け取っている情報って何だろうと思った。

カンパニーは’83年設立以来12~15名のメンバーで活動。大きなフェスや
東風企画が終わった頃に、時代の流れか若い世代が退団、後設立時のメンバー7人で
活動。“若い時こそ努力、磁場で踏ん張るという風は弱まっているようだ”
 認知症の母を抱えながら、日本舞踊を5年ほど学ぶ。
2006年23年つづいてきた仲間の4人が自身の生徒の指導などへ仕事をシフト、退団。これを機に3人のメンバーで有限会社を設立、有限会社がなくなる前年に滑り込んだ。



2010年代~(60代~)

「W/4~夜からの長い手紙~」の公演を最後に、3人のうちの一人が諸事情で舞台活動を辞めスタジオの指導者としての立場に変わる。二人での公演活動は研修生が参加、
外部からのダンサーを招いての公演となることが増え、今までの、週5回同じレッスンを受けていたメンバーとの公演活動と質が変わっていく。
後進の指導に力を入れ、研修生の制度も充実させていく。
20012年4月カンパニー初めて男性がメンバーに参加、新たな展開の兆しになるか。

大人と子供が共に楽しめるノンバーバル作品として、座・高円寺で5年前から企画された「ピン・ポン」が平成24年度 次代を担う子ども文化芸術体験事業として国内小学校
をはじめて巡回する経験をする。小学校には養護学校や聴覚特別支援学校も含まれ、芸術家の仕事として社会参加の実感が少し持てた貴重な体験。
個人の作品創造はソロ活動にシフトを移し、2011年「ハッピーモーニング」のプログレスⅠ、2013年3月に同作品プログレスⅡをスタジオ実験室で上演。
2013年夏、スタジオ改修長く借りているので家主さんも快く承諾、スタジオ公演への展開を可能とする改築を行った。
2013年10月鴎座企画で佐藤信美術・演出によりハッピーモーニングが「しあわせ日和」~ベケットへのオマージュ~として上演される、2014年には北京、東京で再演予定。
2014年3月、若いメンバー武田幹也作品「破格」に出演、さまざまな感慨を持つ体験。 



~つづく~
2014年4月
啓子

0









0

2013siawasekanzaki28.JPG